「永遠の命、贖いについての考察

創世記から「アダムはエデンの園で永遠に生きる予定だった」とされるが、永遠という概念はおそらくなかった、と書いた。その後、旧約聖書全体の中に永遠の命という表現がないことから、新たな考えが生まれた。(聖書にはたくさんの翻訳があるが、BibleGateway.comのCJBを参考にしている)

「アダムの罪の故に死に定められたとされるその子孫とは、我々人類のことである」と今でも多くが信じている。
人類がアダムによって特別な死を受け継いだという考えを書いたのは誰だろうか。旧約聖書にそう書いてあるのだろうか。
       ・ ・ ・ いいえ。それはキリスト以降の考えである。

それは、使徒パウロがローマ人へ宛てた手紙5章から8章の中で彼の考えを書いたものに基づいている。使徒パウロは同様の内容を他の手紙の中にも書いている。

5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
コリント第1 15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。

永遠の命という表現は、福音書全体にイエスキリストの言葉として出てきている。マタイ、マルコ、ルカの中で合計9回、ヨハネによる福音書では17回出てきている。キリストを信じれば永遠の命が得られると。

使徒パウロ以前の福音書の中では、アダムの命とキリストの命を対比させている記録はない。アダムによる罪により人類に死が相続したという表現はない。これはパウロによる解釈に基づいて広められた考えである。

福音書にはキリストが罪の許しについて述べた箇所は多くある。然し、それは個人が犯した罪に関するものでアダムからのものではない。一度もアダムの罪に言及してはいないのである。

創世記の記録にあるように、天地の創造者なる神にとって、アダムが自分の命令に従わず善悪の木の実を食べるとは、予想外のことだった。アダムがどれだけ生きるかも予測できなかった。初めに永遠の命があったかのように信じられてきたが、実はアダムがいつまで生きるかは、初めから不定の時までの意味であり、予想できなかった。アダムの創造の初めから、創世記を含む旧約聖書には永遠の命という考えはない。

アダムは神の命令に背いた後、命の木の実を食べることがないようにエデンの園を追われたが、天地の創造者なる神は、人間アダムを初めから永遠に生きるための命の実を与えてはいない。

人類はアダムが罪を犯したことにより、子孫は死ぬ定めに置かれたというのは、後に状況を説明するために作られたものであり、アダムをエデンの園から追い出す必要もなかったのかもしれない。神の言いつけに従わなかった罰として形式的にそうする必要があっただけではないか。

初めの人間は永遠に生きるようには創造されていないと、なぜそう言えるのか。
なぜなら、天地の創造者なる神自身が永遠の存在ではないからだ。理由は「創世記から読み解く神の真実の姿 Part I 」の中で説明した。

創造者自身、高度な技術力を持つ知的生命体ではあったが、永遠の存在ではなかった。自らも永遠の命を持っておらず、永遠の命を創り出すだけの技術力を持ってはいなかった。最初の人間アダムに対して、「忠実であれば永遠の命を与える」ということは書かれていない。

初めて永遠という言葉が命と関連して使われているのは詩編16:11にあるダビデのことばであり、しかも永遠の命という表現ではない。新約聖書には永遠の命という表現が数多く出ているが、永遠の命という考えはキリスト以前にはないのである。

どうして永遠に生きるなどという考えが出てきたのか。
ずっと後に出てきた考えだとしても、それはアダムに忠誠心を持たせることに失敗した後に、天地の創造者なる神(高度な技術を持つ知的生命体)が新たな壮大な計画を立てることを余儀なくされた際に出てきたものではないかと考えられる。それは間違いを犯してしまった天地の創造者である知的生命体の願いもあったのではないか。

アダムに命を与えたのは天地の創造者なる神である。神は知っていた。初めからアダムが死ぬ可能性のあることを。神自身が永遠の存在ではないことを自覚していた。推測の域を出ないが、アダムを通して自分たちが永遠に生きることができないかと遺伝子操作の実験をしたのかもしれない。

 現人類は永遠に生きられるようにはなっていない。
 永遠に生きることが「幸せと一体」であるとは考えられない。
 幸せでないと感じている人はたくさんいる。
 永遠に生きることだけが幸せを保障するものではない。
 不幸な人生なら、誰も永遠に生きたいとは思わない。
 この根本的な問題を解決もせずに、ただ永遠の命を与えるとした神がいたとしたら、
 それは何とも愚かな存在ではないか。



・ 贖い(あがない)に関する考えはどのように出てきたのか

使徒パウロが説明した「アダムによる相続された死を贖い、キリストの約束した永遠の命を得る」という考えの中にある「贖い」という考えはどこからでてきたのだろうか。

神への捧げものを用意していた記録はカインとアベルの時にもみられるが、祭壇を作り焼燔の捧げものをした記録は創世記8章20節で洪水後のノアの時である。

では、贖い(あがない)、罪を清めるために動物の犠牲などをささげることは、いつから始まったのか。贖罪(しょくざい)とは犠牲や代償を捧げることによって罪を贖うという考えである。

それが初めに出てくるのはイスラエル人がエジプトの苦役から解放された後で、出エジプト記25章17節、契約の箱の覆いとして作るよう指示された表現の中に出てくる。覆いと訳されてはいるが、正確な訳は、贖罪の覆いである。その贖罪の覆いに彫像された二つのケルブの間から神は話をすると言っている。モーセを通して与えられた律法の中にこの贖罪の考えが、神からの指示として出てきている。
この贖いの指示は高度な技術力を持つ知的生命体の考えとして出てきている。贖いの日まで定められた。

このことは、アダムが罪を犯した後、天地の創造者なる神が壮大な計画を練った際、その計画の一部に当てはまるよう「贖いに関する考え」を作り出し、こうしてできた贖いに関する考えはモーセを通して固定化させるために律法の中に指示したと考えることができるのではないか。

罪を贖うという考えはこうして出来上がった。それ以後、人々の犯した罪を清めるために贖いの犠牲がささげられてきた。この時点では、アダムの罪を贖うという考えはなかった。

アダムの死を贖うという考えはキリスト以後、使徒パウロにより解説された。しかし、アダムが初めから永遠に生きるように創造されていなければ、アダムの死を贖うという考え方自体が間違っていることになる。これは重大な問題提起である。

ヨハネによる福音書3章16節に
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛 された。それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つため である」と書かれている。

ここに書かれている神は、創世記に出てくる天地創造の神と同じである。そうでなければならない。高度な知的生命体のことである。その神は複数で表現されていた。まことの神の子も、敵対者もいたことも考えると、天地の創造者の神がそのひとり子を与えたという事実はあり得たかもしれない。問題はその後にある。「ひとり子を与えるほどに世を愛された…永遠の命を持つため」という表現である。

世とは何をさしているのか。
神はなぜアダムに罪を負わせ、(使徒パウロの言うことが正しいとすれば)人類に死を相続させたのか。
なぜノアの時代に、ノアの家族を除いてすべての人類を滅亡させたのか。
古代イスラエルを選び、律法を与え、それによって規制し、自由を束縛したのは、ここでいう神自身ではないか。
ユダヤは選ばれた民ということからごう慢になり、排他的になり、結局2世紀の初めにエルサレムを中心としたユダヤはローマ帝国により完全に滅ぼされ、ユダヤ人は全世界に散らされてしまったではないか。

世を愛したという世は御子であるキリストを信じる者だけの世を指しているのかもしれないが、そうなら、信じなかった人類の大多数は悲惨であることにならないか。
永遠の命を与えると約束していても、永遠の命とは何を意味しているのか非常にあいまいである。単純に信じればよいというのは重大な誤りではないか。

現代は、生命とは何かがやっとわかりかけてきた時代である。最先端の科学が生命とは何かを明らかにしつつある。それは想像を絶するほどの複雑なものであるが、理解することが不可能なものと断定することはできない。時間の経過とともにさらに明らかになって行く。
旧約聖書の時代からキリストの時代と現代では、生命観が大きく違うと言ってもよいだろう。

絶対者なる神にとって人間に永遠の命を与えること自体には何の問題もない。問題は全知全能の神、永遠の神、絶対者なる神がそれを約束していないのに、多くの人がそれを信じていることである。どこにその約束の事実があると言うのだろうか。

信じる人は「それはキリストのことばであり、キリストの約束である」と言うかもしれない。しかし、それは事実とは言えない。キリストの約束であっても、それは信じる人にとってのみ真実なのである。キリストは神の子であったとしても人間であり、全知全能の神、永遠の神、絶対者ではない。それ故、キリストの言葉にある永遠の命を真実の約束と受け止めることには問題があるのではないか。

使徒パウロが主張し始めたアダムの罪により死が人類に及んだという説には間違いがあることを書いた。アダムは初めから永遠の命を与えられてはいなかったと。罪を犯す前から、人間として創造されたその初めの時から死ぬ定めにあったこと。そして天地の創造者自身が永遠の存在ではないことを。

認識の多面性の中でも説明を試みたが、信じることは人類が抱える重大問題の一つに思える。

創世記の中に、アブラハムに対して実の子イサクを犠牲として捧げるようにという記録がある。後に、これは神が自分の一人子を世に遣わし、犠牲とすることを予表したとされる内容で、多くの人にとって信仰の模範とされている。しかし、本当にそうであるといえるのだろうか。


2016年11月 マイケル アレフ