マイケル アレフの ことばの認識は世界を変える


20169

   
創世記の記録から読み解く 神の真実の姿 Part1 


  
聖書の初めに出てくる言葉は「初めに神は天と地を創造された」という記述だ。その後、神の指示で光が生じ、陸地が作られ、植物、季節がつくられ、水中の生き物、空を飛ぶ生き物、巨大な生き物などが創造された。最後に人間が創られた。その際の記述(126節)では「私たちのかたちに似せて」人を造り、作られた生き物を従わせようとしたことが書かれている。

 「私たちのかたち」という表現から、この記述を書いた人は、人間の創造者は複数であったこと、人間は創造者たちの「かたち」を受け継いでいるということを示した。「かたち」が何を意味するかは後に様々な解釈されることになるが、創造者の持っている性質、特質として、人間には公正や愛があるなどと解釈されてきた。

  天地創造(記録の)年代には諸説あるが、紀元前4000年頃とされる。当時地球は平らだった。それから5000年以上の間、望遠鏡はなく、宇宙は地球が中心で、太陽と月と惑星などたくさんの星が見える小さいものだった。やがて、平らな地球から球体の地球へと変わり、地球が中心だった時から、太陽の周りを他の惑星と同じように地球も回っていることがわかるようになった。現在は太陽系も銀河系の中の一部であることがわかっている。銀河の数も数えきれないほどたくさんあることもわかっている。宇宙は無限の広がりに変わり、超新星やブラックホールの存在が明らかな時代となっている。

      

 物事に関する人間の理解は科学の発展と共に大きく変わってきたが、全知全能の神、無限の神、絶対者としての神の理解は変わらない。なぜ変わらないのだろうか。なぜなら絶対者としての理解は変わりようがないからだ。これは現在の最先端の科学の考えに基づく神であり、6000年も昔の天地創造者の神ではない。同じ「神」という言葉は使われているが、意味する内容には大きな違いがある。人間の認識は6000年前と比べれば、すでに大きく変わっている。これは、同じ「神」という言葉を使うことによるトリックみたいなものだ。


 天地の創造者の頃の神は全知全能の神ではなかった。全知全能だなどとも言っていない。全知全能という言葉もなく、その意味も分からなかった。無限の概念もなかった。絶対者としての神の理解はありえなかった。現在の神は科学が明らかにして来た結果に基づく考えである。昔信じられていた頃の神様を今どきの神様にすり替えている。(全能の神という表現が初めて出てくるのは創世記171節でアブラハム99歳の時からである。)

(創世記221節)神は最初「人からとったあばら骨を女に造り上げた」という記述がある。これは当時としては理解不能なものである。しかし現代の科学では、それが可能であることを知っている。人類はすでにクローン技術を使い動物で成功している。ゆえに、この記述が正確なものであると仮定すると、ここに表現されている神は、現在の人類よりはるかに進んだ科学技術を持っていたことになる。すると、神が天地を創造したという記述も、高度な科学技術を持つ生命体からの情報として記述されたもので、その生命体は地球が球体であることも知っていたのに、あえて真実を伏せていたことになる。

 五千年以上を経てわかるようになった「地球が宇宙の中心ではなく、太陽の周りを他の惑星と同じように回っていること、太陽系も銀河系の中の一部であること、銀河の数も数えきれないほどたくさんあること、宇宙は無限の広がりを持ち、超新星やブラックホールの存在があることも」当時の神(生命体は)知っていたのに、あえて真実を伏せていたことになる。もちろん、その時代に真実を伝えることができたとしても、当時の人間が理解することには早すぎたのかもしれない。それ故、「初めに神は天地を創造された」とだけ伝えたのかもしれない。
     

創造された初めの人間は「善悪を知る木の実を食べてはならない」という神からの命令に背き、それを食べた。その時から、人間は善悪を自ら決めることになった。「人は善悪を知る点で私たちの一人のようになった。命の木から実を取って食べ、永遠に生きることのないように」(創世記322節)エデンの園の東にケルブたちと自ら回転し続ける剣の燃える刃とを配置して命の木への道を守らせた。

 

ケルブたちとは天使のことである。自ら回転し続ける剣の燃える刃を配置させたという記述は、創造者が高度に発達した科学技術を持っていたことを示している。「人は善悪を知る点で私たちの一人のようになった。」という表現は、創造者側は複数の生命体からなり、善悪という価値観を持っていたこと、また、天使としてケルブの存在を明らかにしている。

 

ここではケルブの形は明らかにされてはいないが、後にモーセを通して指示されて作られた金に覆われた契約の箱(長さ約130cmI、幅と高さがそれぞれ80cm、十戒の石板とアロンの杖そしてマナの入った壺が入れられていた)の上にかたどられた天使と同じ生命体を表していると考えられる。(出エジプト記37) 

 創世記51節はこれらの記述がアダムによる歴史書であることを記録している。

 

神は自らが創造した人間アダムが罪を犯すことを知らなかったのか。予知することができなかったのか。神の正義を信じる人は「神があえて予知しなかった」などと言う。しかし、それでは神の絶対性を否定することと同じだ。ここで表現されている神は知らなかったし、予知しなかった、また予知できなかった。これは当時の神が全知全能ではないことを明らかに示している。

 天地の創造者が全能の神であったなら、アダムが罪を犯すことはなかった。罪を創ったのは天地の創造者のせいである。罪を作ったという意味は、善悪を知る木のみを食べてはいけないという命令のことである。こんな命令を与えたから、アダムは罪を犯したことになった。食べてはいけないという命令を与えなければ、罪はなかったのである。当然別の方法も考えることができたはずである。 


創世記6章にはノアの歴史としてその時代、「まことの神の子らは人の娘たちを見、その器量の良いことに気付き、自分たちのために妻をめとり、ネフィリムという子を産ませた」という記述がある。

 ここでいう「まことの神の子ら」とは神と同様に高度な知的生命体たちのことと考えられる。

 

 6節に「神は地に人を造ったことを悔やみ、その心に痛みを覚え」という記述がある。明らかにここでいう神は絶対者ではない。「悔やみ、心に痛みを覚え」るのは、人類よりははるかに優れた文明を持つ生命体ではあっても、間違いを犯し、反省する存在であるということを示している。

 

 ノアの記録によると、洪水によりノアの家族以外を滅ぼした後、その子セム、ハム、ヤペテを通して新たな人類世界が作られた。

 記述が真実かどうかは別にして、このことからわかるのは、神(高度の生命体)は現代の人類並みの道徳意識しかもっていなかったことである。つまり人類よりはるかに優れた科学技術を持ってはいても、道徳的にはほとんど進歩していなかった。まさに現人類と同じレベルであるように思える。

 

ネフィリムは人間の娘たちと神の子(天使)の子であるが、子供が生まれた。このことを事実ととらえるなら、神の子は人間と交配可能な生命体のことである。「その器量の良いことに気付き、自分たちのために妻をめとった」という記述は、知的生命体である神とその子たちの持つ道徳観は今の人類の持つ道徳観とそう変わりはないことを示しているように思える。

 

 111節には「全地は一つの言語、一つのことばのままであった」という記述がある。7節に「私たちは下って行って、彼らの言語を混乱させ、彼らが互いの言語を聞き分けられなくようにしよう」とある。それゆえにそこの名はバベルと呼ばれた。これはセム(ノアの子)の歴史と書かれている。

 

 ここでも神は「私たち」という表現を使い、唯一の存在ではないことを示している。目的は言語を乱し、バベルの塔の建設などを阻止することであった。現代の人類並みの考え、道徳意識で行動している様子がうかがえる。しかし、科学技術の面では一つの言語を多くの言語に変えたことが記録されている。どうやって言語を乱すことができたのかはわからない。ただ、現在の人類は自動翻訳機などの技術をかなり進歩させ、一つの言語を多くの言語に翻訳する技術を作り出してはいる。

 

 12章では、アダムからおよそ2000年後、神はヘブライ人の族長アブラムに語り、アブラム(後のアブラハム)から大いなる国民を作ると約束する。(その子イサクを通し古代イスラエル国民、イサクの異母兄弟であるイシマエルを通してアラブ諸国民が誕生する。)この頃から至高の神、主権者なる神、全能の神という表現が使われるようになる。神は幻の中で、また夢の中でも語るようになる。み使いという表現も出てくる。

 

 ソドムとゴモラの話が載っている。不道徳な町として出てくるが、神により火と硫黄の雨によりその町は破壊された。アブラムとの会話の中で神は10人の義人がいれば町は破壊しないと約束している。しかし、当時の不道徳(後のモーゼによる立法でも)同性愛などは悪とされている。今ではその悪を人間の権利として認めている都市も多い。残念なことにソドムとゴモラの諸都市には神から見た義人はいなかった。(アブラハムの甥のロトの家族だけが救出された。)

破壊という意味での技術は、すでに現在人類が開発し持っているが、当時としては想像できないほどの恐怖であったにちがいない。

 

 このように創世記に記されている神(私たち)はまるで人類とそっくりではないか。人類もここ100年で科学技術を飛躍的に進歩させ、宇宙にも進出し、人類が生き残るために火星という惑星に進出しようと計画している。人間の持つ権利も大きく変わってきた。数千年の歴史を経て人類は科学技術を進歩させてきたが、人間性の進歩はそれに比べ無いに等しい。まるで当時の神(高度な知的生命体)と同じではないか。

 

 今一度振り返って、創世記127節の初めに出てきた記述を見てみよう。

1:26神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 

この言葉はそのまま真実を伝えていたと受け止めることはできないだろうか。人は神のかたちに創られた。つまり、ここでいう神は人類と同じかたちの存在 ・・・「人間」であったと。ここでの表現には何の解釈もいらない。そのまま真実を伝えていたと受け止めることができるのではないか。

神のかたちに創造されたのは男と女である。それ故、自分のかたちである天地の創造者には男と女もいたと受け止めることができるのではないか。

 

 ネフィリムという子供を作り出した人間と交配可能な生命体(神の子)、最初の人間は神の形に似せて創造され、「善悪を知る点で我々と同じようになった」という表現、これらを考えると、当時の神が現在の高度な文明を築き上げた現代人と同じように見えてくる。「天地の創造者、高度な知能を持った生命体とは人類の先祖のことである」と考えることはできないだろうか。

 

数千年にわたり多くの人が信じてきた、天地の創造者が実は「人間」であったなど誰が受け入れられるだろうか。そんな馬鹿なことがあるかと一蹴されそうである。しかし、ここに書いた内容は創世記に書かれている記録と現代の科学に基づく帰結、一つの考え(結論)である。


                   

 創世記では、神が人間を創ったと述べてはいるが、この知的生命体が人間を文字通りに創造したとは思えない。おそらく現在の人類以上に進んだ科学技術を持っていたとしても、遺伝子を操作して、同じような人間を創ったという意味だろうと推測する。創造者が人を自分たちと同じかたちに造ったと述べているかたちとは遺伝子のことではないか。

 

 すべての生命に見られる遺伝子は、創世記にあるこの程度の知的生命体では創れるはずはないと思えるからだ。我々人類はこれほどの科学技術を持ちながら、まだ一つの細胞、一つの生命さえ作れないでいる。それ故、ここに表現されている神も、実は遺伝子を受け継いでいて、その意味ではやはり創られた存在であったのではないか。

 

すると遺伝子は誰が作ったのか・・・天地創造の知的生命体よりはるかに優れた科学技術を持つ生命体と言えるかもしれない。ではその生命体は何を、誰を指しているのか・・・極微の世界から全宇宙に至るすべての創造者、エネルギーとすべての次元の源として考えられる全能の神、絶対者のことか。

確かに命を含むすべての源として絶対者であると言うことに間違いはない。そう信じている限り、間違いも、裏切られる可能性もない。ただし、人間が遺伝子を操作するように、はるかに高度な知能を持った生命体がすでにある素材を利用して遺伝子を作ったとしてもおかしくはない。真実に到達するまでには長い時間が必要だと思われる。

 

 理解できない記述が一つある。それは人間の創造に関する記録で、人は「土のちりで造られ、命の息をその鼻に吹きいれられた」ことで人が創られたという記述だ。最初の人間であるアダム自身に関するこの記録を自分が見たはずはない。記述はアダムによると考えられるが、内容が真実であれば、必然的に知的生命体により伝えられたものと考えられる。人間の詳細な創り方を説明したとしても当時の人間には全く理解できないものと判断し、わかりやすく説明したつもりだったのかもしれない。人間が基本的に地球上にある元素から創られているという意味と神に従うべき存在として命の息と表現したのかもしれない。また、それ以外にあったさまざまな考えの一つを書いた可能性もある。

 

創世記の3章にもう一つ重要な内容が書かれている。

アダムとその妻が神の約束を守らず、善悪を知る木の実を食べた後、二人は裸であることに気付き、いちじくの葉で腰を覆った。二人は神の声「どこにいるのか」との問いかけに、すぐに反応せず、ついに「声は聞こえていたが、裸だったので怖くなり身を隠した」と答えた。

 アダムは「あなたが与えてくれた女が木の実をくれたので」食べたと答え、女は「蛇が欺いたので」食べたと言い訳を言った。

 記録では神は蛇に何の言い訳も聞いていない。蛇に対しては、地上で最ものろわれる存在となり腹で這いあるくこと、そして「お前と女の間、その胤(たね、子孫)との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう」と告げた。

女に対して「生みの苦しみを持って子供を産み」、男に対して「顔に汗してパンを食べ、ついには地面に帰る」と言った。そして二人に「長い衣を作って着せた」と書かれている。二人はエデンの園を追われた。

善悪を知る実を食べることが、なぜ裸であることに気が付くことにつながったのかはわからない。裸であることに何か問題でもあるのだろうか・・・実はない。生命体は自分たちが裸であることに何らかの抵抗を持っていたとも考えられる。二人に長い衣を作って着せたという記録から、人間は長い衣を着るようになったことがわかる。なぜ長い衣を与えたのか・・・知的生命体も何らかの服を着ていたことを示していると言えるのではないか。

 

この記録は何を伝えようとしているのだろうか。これが真実の記録だとすると、

「最初の人間が神との約束を守らず罪を犯した」ということは重大な事件であるため、それに対する神の意志がはっきりと表れていておかしくないと考えられる。高度な知能を持つ生命体としては何をしようとしていたのだろうか。

すでに述べたように、創世記は知的生命体が複数であり、ネフィリムを生み出した神の子たちもいたことが書かれている。これは天地の創造者からみると自分の意思に反する敵対する勢力があったと考えることができる。

蛇は何を意味しているか。女は蛇を恐れていない。蛇は文字通りの爬虫類としての存在であったとしても、エバに語りかけたのは文字通りの蛇ではない。蛇はことばを話さないし理解しない。それ故、腹話術を人間が使えるように、マジックのように、別の知的生命体が蛇に見せかけて女に語ったと考えることはできる。その蛇に対する神の対応が非常に厳格であったことを考えると、蛇の背後には自分に敵対する者がいたと考えることはできるだろう。

 

では、蛇に対して「お前と女の間、その胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう」ということばは何を意味しているのか。

これは知的生命体の壮大な計画を示していることは間違いないだろう。様々な解釈があるだろうと思われるが、高度な知能を持つ生命体は人間の創造において、初めの期待と予想は外れ、忠誠心を持たせることに失敗した。初めの人間が自分たちの指示に従わず、予想外の問題が生じてしまった。それは重大な問題だ。

計画は大きな変更を余儀なくされた。そこに敵対する勢力が関係していた。天地創造の神としては何らかの解決策を示したと考えるのが妥当だろう。

 

一つのヒントと思えるのが、マタイによる福音書の第1章にある。そこにはアブラハムから始まってイエスの母親に至るまでの一族の血縁関係を示す名前が書かれている。ずっと待ち焦がれていた待望のメシア(キリスト)の誕生、それを意図して書かれたものである。ルカによる福音書3章中頃にはイエスの父親となったヨセフの家系の名前がアダムにまでさかのぼって書かれている。マリアとヨセフの家系は共に先祖に族長アブラハム、イスラエルの王ダビデがいて、イエスがアブラハムの神との約束の正当な子孫であることを示すために意図して書かれたものである。

 

天地の創造者なる知的生命体は4000年にもわたる壮大な計画を考えていたのだろうか。

 

アダムからおよそ2000年後、神はヘブライ人の族長アブラムに語り、アブラム(後のアブラハム)から大いなる国民を作ると約束した。すでに示したが、これは古代イスラエル国家の誕生を意味した。

創世記15章にはアブラハムが深い眠りに入った時に「子孫が外国の居留者となり、400年の間その民に仕え、苦しみを強いられ、その後、その民は神によって裁かれ、子孫は4代目に多くの財産をもってその地から出てくる」と書かれている。

アブラハムの孫にあたるヤコブはおよそ70人の家族をつれて、飢饉を逃れてエジプトに下った。数百年後その子孫であるイスラエル人はおよそ200万人に膨れあがっていた。エジプトの奴隷のような境遇にあったイスラエル人はモーセを通して救出され、約束の地であるカナンの地、ペリシテ人の地パレスチナに向かった。

 

約束を守るなら、約束は未来においてそうなることを意味する。約束は未来を創っている。知的生命体であるアブラハムの神はおよそ400年という時間をかけて約束を果たしたことになる。数百年にわたる壮大な計画を立て実行することは想像を絶する困難を伴うように思われるが、未来を決めること(約束を守ること)ができる能力と力があれば可能なことかもしれない。(この時代、ほとんど科学的進歩は無く、のんびりと生活できた時代であったことも背景にあると思われる。)

 

しかし、未来において必ずそうなると言うことは予言である。予言は未来を決めたということで、その過程に自由意志や変化が入り込む余地はない。未来における一点を告げることは予言ではなく予測に過ぎない。完璧な予言とはその一点を成就させるために、そこに至るすべてのことを決めることであり、そこには絶対性が求められる。絶対者なる神はそれが可能な唯一の存在である。しかし、絶対者が予言により未来を決めることはないし、そうする必要もない。予言をすることは天地の創造者(高度な知的生命体)であっても不可能だ。完璧な予言など自由なこの世界にあってはならないことであるからだ。

イスラエルの歴史には多くの予言者が出てきて、予言を伝えるが、予言の意味が違っているのかもしれない。予言には絶対性があるように考えられているが、基本的には予測か約束の意味ととらえる方が適切と思える。

 

 話がそれてしまったが、400年という時間に関連して不思議に思うのは、知的生命体の寿命はどうなっているのか、これだけの時間をかけて実行できる存在なのかという点である。

仮説で述べた人間と同じ遺伝子を持つ生命体として天地の創造者の寿命はどうなっているのだろうか。

 

エデンの園でアダムは永遠に生きる予定だったとされるが、永遠という概念はおそらくなかった。それは定めの無い時までという意味だったと思われる。

 

天地の創造者なる神(生命体)が永遠の存在とは思えない。スティーブン・ホーキング博士は「宇宙にはたくさんの生命体がいると考えられるが、高度に発達した文明は滅びてしまう」と語っている。知的生命体である神は永遠の存在ではなく、すでに存在していないのかもしれない。

 

創世記には、最初の人間アダムは930年生き、ノアは950年、アブラハムは175年生き、そして亡くなったという記録がある。年齢の決め方、時間の計り方を今と同じと考えることはできないかもしれないが、天地の創造者なる生命体は同じかたちの存在であったことからその寿命を数千年またはそれ以上と推測することは可能だろう。

 

 エジプトにおいてイスラエル人を開放するため知的生命体がもたらした十の災い、過ぎ越しの祭り、荒野における40年、厳格な律法が与えられ、エジプトから救出された200万人とモーセさえ約束の地に入ることが許されず、その子孫のみが許された背景などに見られる知的生命体のパワーと唯一人の神に対する専心の献身という厳しさを求めるようになる背景には、アブラハムとの約束を含む壮大な計画と目的があったのではないだろうか。

 

 天地の創造者なる神(高度な知能を持つ知的生命体)は、初めの人間アダムの創造と計画において忠誠心を持たせることに失敗した。初期の計画は大きな変更を余儀なくされた。そこに敵対する勢力が関係していた。これらを背景に、知的生命体は新たな壮大な計画を立てた。はたしてその計画は適切なものであったのか。初めの計画はすでに失敗だったことから新たな計画が失敗しないという保証はない。結果はどうであったのか。このすべては未来の人類に対して何を伝えようとしていたのだろうか。

マイケル アレフ



2023年7月
「神という言葉は人類の無知の象徴である」と書いた。

数百年前であれば、人類に情報は少なく、わからないことは多く、無知であった時代があったと理解することはできる。
現代は情報に溢れ、知りたいことは何でも調べることができ、情報を集めることができる。宇宙に2兆もの銀河の存在を認識できる時代である。

人類は無知の時代を通り過ぎ、新たな時代に生きている。人類はもはや無知ではない。神という言葉は今は単に無知の象徴ではない。

何を信じてもかまわないという時代は終わった。信じることに間違いがあってはならないからだ。

人間に間違いはたくさんある。それが許されるのは修正ができるからだ。
信じることは別の次元の話であるが、人間に間違いを信じることは許されていない。なぜなら、信じることは修正ができなくなることを意味し、その多くは修正が不可能になるからだ。

正しいとは現時点で修正を必要としないと考えることを意味するが、間違いが無いという意味ではない。

自分の信じていることに間違いはないと、絶対正しい、絶対間違いはないと信じることはよくある。今までに起きた日本赤軍、オウム真理教、イスラム過激派などによる殺人が肯定されてきたのは、自分たちに間違いはないと確信できたからだ。
ロシアの指導者がウクライナを侵略し始めたのも自分たちが正しいと信じたからだ。
過去に起きた戦争は同じように、自分たちの価値観を間違いないものと信じたことにある。間違いを信じることは、人間として、人類として許されることではない。

人間は有限であり、絶対はあり得ない。しかし、信じることは、完全、永遠、絶対正しいがあり得るようになる。それは誤りを信じていることと同じである。

人類の大半は今も無知であった時代の神を信じ、過去を清算することができないでいる。それ故、神という言葉は今は人類の無知ではなく、人類の愚かさの象徴である。

それを裏付けるかのように、人類は昔の考えを引きずり、人間の世界には今も戦争があり、人種差別があり、殺人を含む犯罪が毎日起きている。
国家は力を求めて軍拡をすすめ、領土を求めて争い、国民は優越感を求め、弱肉強食の考えを捨てず、人間の世界は利益追求の社会のままである。 

人類が絶滅するのは時間の問題かもしれない。
いつその時が来るかは誰にもわからないが、修正するための時間は残されていないのかもしれない。人類全ての責任である。
と言っても、絶滅を恐れる必要はない。人間の世界が無くなり、大自然に戻るだけである。
できることはある。その覚悟だけはしておくことである。
その覚悟があれば、もしかしたら、未来を変えることがあり得るかもしれない。

マイケル アレフ  2023年7月