マイケルアレフのことばの不思議な世界

              ことばの新たな認識へ
このサイトの中に書いた現実に基づく基本的な考えを一覧表にまとめてみました。
それは新しい考えではなく、あるがままの現実に基づくものとなるよう考えたものです。
人間の世界であるために見えなくしていた原因、人の価値観を取り除く試みです。


以下を追記
2023年12月
感情とは五感を通して入力される刺激に対する、人間の脳による価値観の反応のことで、その価値観は幼少の頃より親を含む社会環境により作られている。
社会環境を変え、思い込みにより作られている価値観を変えることができるなら、感情は違う反応を示すようになる。

2023年6月
正しいとは、現時点で修正を必要としていないと考えること。
間違い誤りとは、現時点で修正を必要とすることであると考えること。 
理由: 正しいという表現は一般的に間違いが無いという意味で使われているが、人間には間違いはあり、時代によって、人の考えによっても変化する。正しいとは間違いが無いという意味ではない。現時点では修正する必要は無いと考えるという意味である。


             「 ことば」 について
ことば  人生に意義があるのは、人間に「ことば」があり、考えることができるからである。もしことばによる考える能力が無いなら、人間は生きていることさえわからない。 人間のことばは、人間が知的生命体である理由、存在の意味を知ること、人間が進歩する背景である。
それ故ことばは、現実を、あるがままの真実を、理解するためにあると考える。

人間の「ことば」は、人間の脳が五感を通して得た実体に関する情報そのものと、それを人間がわかるように、実体を物の名前に置き換えた単語などの総称である。
単語は実体の代わりに物の名前として情報を伝えるものである。

人間のことばは無限の情報を取り扱うために様々な媒体を作り出し、人間が情報を伝え、利用するために作ってきたものと考える。
人間のことばの媒体には単語、文字、数字、文章、指文字、手話、話、音読、考え、絵、歌、また様々な言語などがある。

このサイトでは、初めことばを人間のことばと考えていたが、人間も地球も宇宙も、あらゆるものが情報を伝えるものであることから、ことばの一部であると考えるようになった。
「ことば」、情報を伝えるものすべてを意味し、人間の思考を越えるものであり、「ことばはすべてである」と表現できるほど、現時点では新たな考えや説明が必要であるように思える。

単語  人間のことばの基本である単語は、脳と五感によって作られる物などに付けた名前のことである。
 五感は人体の外から入力される刺激を受け取る主な入力器官のことで、眼で見る・耳で聴く・鼻で匂いを嗅ぐ・舌で味う・手足などで触ることによる五つの感覚のことである。
 人間の脳は五感から入力されたイメージを含む情報を統合して物に名前を付けている。
 単語は人間のことばの媒体として作られたものであり、実体の代わりに使われる情報である。

情報  五感から入力される刺激が神経を通って脳に伝わる電気信号などを初め、ことばの媒体はすべて情報である。命、人間、重力、電磁波、宇宙もことばの一部を構成する情報である。人間は、あらゆる情報を人間のことばに置き換えることにより、その情報を知り、理解し、活用している。

知識
 知識は、情報をことばのシステムにより単語、イメージなどのことばの媒体として蓄積させたものの総称であると考える。使わないと保管されているだけであるが、調べる等の行動を取ると、知識は情報として扱われる。
ことばの媒体 人間のことばの媒体は、人間のことばを構成し情報を伝えるもので、物の名前である単語、 文字、数字、文章、絵、音読、歌、話、考え、音楽、手話、言語などがある。

考える  ことばを持っていることは、考えることができるという意味である。 考えるとは脳が単語などにより、意志、目的やテーマに沿って文章を作ることであり、考えとはその内容である
 地球上では人間だけが十分に発達したことばを持ち、考えることができる唯一の知的生命体である。
 人から考える能力を奪えば、知的生命体としての意味を失うことになる。存在の意味を失う。ことばで考えることがないなら、人間の存在意義はなくなる。

会話  会話により意思の疎通ができることは当たり前に思われていても、ことばによる考えは、口、呼吸気管、声帯などの働きにより、情報を空気の振動に変え、声として伝えている。声は情報であり、ことばの媒体である。考えは音として、文字による文章として、映像としても伝えることができる。人間の存在はことば(遺伝子)により、想像をはるかに超えて作られているように思える。



              教育について
学習  動物を教えても、動物にはことばと学習能力が無いに等しいため、学ぶことができない。繰り返しと飴とムチにより行動パターンを覚えさせ、躾(しつけ)ることはできる。これが家畜の飼育などに際し躾が必要な理由である。
 人間には学習する能力がある。生れつき持っている脳の働きで、適切な情報を与えるだけで、自分から学習し、学ぶ。 強制する必要はない。 これが理由で、親の模範から子供は学んでしまう。
多くの子供たちは親を含め大人の悪い模範をいつも見て、学習している。

 人間としての良い模範が少なく、正しい情報提供がなされていない。子供は幼い時から人間としての肝心な模範、あるべき情報提供、考え方を必要としているのに、それが十分に与えられていない。
 学習することの大切な一面は、 自らの間違いを見つけ、進んで反省し、自分の認識を変えていくことである。

親の現実  人の進歩を阻む人間が身近にいる。最悪なケースの一つは親がそうである場合だ。
 いつも親の方が正しいと思って、子供の進歩しようとする意志を否定する。子供の考えを理解できず、頭から押さえつけようとする。
 子供はなぜなのかその理由がわからず、葛藤を経験する。親を乗り切る、乗り越えるまでそれは続く。挫折してしまう、あきらめる場合も多くあるだろう。人間は進歩をめざし前進すべきであるが、現実はそうではない。大半の親は自ら進歩せず、周りの子供の進歩を阻んでいる。

人間  地球上では人間だけが、高度な知能とことばを持ち、人間とは何か、自由とは何かと考えることができる。人間が知的生命体である理由である。

自分  自分という存在は人間が産まれてから脳が作っている。人間の脳には学習機能があり、経験を通して様々なことを学んだ。記憶に残され、一生を振り返ることができる。その存在の意味は脳にある。生きている間、脳が健全な活動をしている間、自分という存在がある。脳が無ければ自分は存在しない。

教える  教えるとは「情報を提供する」という意味であり、情報が、教える側から教えられる側に、一方向に流れることで、知識を与えることである。
 「教えることが、わからせることになる」と考えてきたことに、重大な誤りがある
動物を教えることからわかるのは、教えても何も学ばないことである。考えるためのことばがない。どれ程強制しても、学習することはできない。考えてわからせることなどできない。



            価値観を作る単語の意味について
価値観  価値観の多くは人類の初期の頃から作られてきているもので、今に至るまで受け継がれている。その背景に、人間にとって不思議なこと、わからないという理由があった。人類は神、悪魔、サタン、悪霊、その呪い、罰、死後の世界である天国、地獄、さらに運命、幽霊、お化け等、無い存在を在るかのように作り、教え、恐怖を植え付け、価値観を作ってきた。これらは人間を欺き、誤導するために使われてきたもので、重大な間違いである。
 今でも幼少の頃に教えられると、国、民族、宗教、その常識もそれが正しい価値観になってしまう。それは偏見のことである。時代がその修正を求めている。

 人間は生まれる前、その存在は無かった。産まれてから脳が自分という存在を作ってきた。人間の脳には学習機能があり、経験を通して様々なことを学んだ。記憶に残され、一生を振り返ることができる。その存在の意味は脳にある。脳が死ねば、その個体の存在は無くなる。生れる前に戻ることと同じである。それは脳死が死である理由である。

正義  正しい義は人間の世界にある。元々は神というわからない存在が定めたものであった。正義を主張すれば、争いになり、敵を作り、戦争が起きる。正義ということばは力の象徴であり、力が多くの問題や争いに決着をつけてきた人類の歴史そのものである。正義は力を意味してきた。
 正義は自分は正しいという考えに根差し、自分本位の考え、自分を正当化する考えで一杯になり、そこから抜け出すことが困難になる。
 人間の認識が作り出している価値観その多くは優越感を求め、競争し、勝つことにある。正義という単語、ことば自体に矛盾を抱えている。それに気付く必要がある。
 人は隣人愛、人類愛を掲げて、相手のことを考え、自分と戦うべきである。本当の戦う相手は自分である。問題は自分の持つ価値観にあるからだ。

美しさ  美しいと感動することはあっても、それは美しさがあるからではない。幼少の頃より作られている価値観の働きである。人の持つ認識により、人によって違う。脳の思考と感情の働きである。昔はそれを心と表現した。
 大切にしたい価値観の一つであるように思えるが、お金に換算し、人類を誤導してきたものでもある。

恐怖は無い。恐怖を植え付けてはならない
 人間以外の生きものの多くは生まれた頃から遺伝子により、危険に対して退避行動を取るようにプログラムされている。しかし、人間は違う。人間の赤ちゃんにはこの機能がない。全く無防備であり、危険を知らず、対応することはできない。両親を中心に人間社会からの支援がなければ人間として生きていくことができない。

 恐怖は産まれた後、美しいと同じように教えられ、そう思うように作られたものである。現実にある危険に対しては、その正確な内容と対応の仕方などの情報が提供される必要がある。死を含むあるがままの大自然である現実は怖れるのではなく、正しく知り、対応、対処する対象である。恐怖を植え付けることは間違いである。
 人間は恐ろしい存在に成り得ることを知っておく必要がある。同じ人間でありながら、正義の名の下に敵を作り、大虐殺を数えきれないほどしてきた歴史がある。

信じる
 信じるとは真実の追求をあきらめ、疑問を持たず、鵜呑み(うのみ)にすることで、真実に対して盲目になること、真実に目をつぶることである。妥協すること、騙されること、進歩をあきらめることと同じである。 有限の人間には、絶対(制限が無い状態で100%正しい、完全、完璧) はあり得ないからだ。
 情報が少なかった時代、わからないことは多く、信じる以外に方法は無かったことは理解できる。しかし今、全ては追求する対象であっても、信じる対象ではない。思い込むことは信じることにつながり、間違いを受け入れることになる。価値観の多くは思い込みに根差した偏見である。

 自然界はあるがままの現実である。偏見である価値観を持たなければ、そこから真実を学ぶことができる。
 人間が謙虚で誠実であれば、人間の社会ほど信頼に値するものはない。間違いがあることを前提に、信頼を築いていくことが人間としての責務である。

自由  すべての生命体は、それぞれの生命体としての制限はあるが、自由である。地球上では人間だけが、高度な知能とことばを持ち、自由とは何かを考えることができる。
 人間は、自由ということばを作り、自由とは何かと考え、自由がもたらす恩恵に感謝すると共に自由に制限を課してきた。
 人間が生きていくための知恵として、互いに助け合い、協力し、支援し、協同体として働くことが人類の繁栄のために必要であることから、様々なルール、規則、法律などを作ってきた。人間の自由を束縛するのは、また制限するのは知能による責任感である。
 自由に対する責任とは、人間の知能を活用する中で、自由への制限を守ること、社会を構成する人間としての義務を果たすことであり、それは人間が持つ自由を守ることである。生命体として生きていくための制限と社会的協同体の一員としての制限である。人間が自由であるためには、その制限の理解が不可欠である。その責任意識は教育により、学習により身に着けるものである。

真実  真実は作られるものではなく、在るがままのことで、現実のことである。宇宙を含む大自然は在るがままの現実であり、真実である。人間が作り出すものは真実とは限らない。その多くは真実と思わせる価値観である。


              形容詞などについて
同じ  同じには二つの意味がある。
 一つは、全く同じ、完全に一致している、同一のものであるという意味である。ただし、人間の世界では同じに見える物であっても、時間と位置で違いがあり、全く同じ、完全に一致してはいない。同じ物は二つ存在していない。同一の物ではない。更に一つしかないものであっても、時間と共に変化していて、同じ状態であることはない。
 もう一つは、類似しているものという意味で、普通、類似しているものを同じだと思っている。

物理的表現  大きい―小さい、早い―遅い、重い―軽い、長い―短い等の物理的表現は比較することから作られる。比較していることを忘れて、大きいがある、小さいがあると思い込んでいるなら、それは間違いである。比較しなければ大きいも小さいも無い。比較しなければ、大きいリンゴは存在しない、小さいアリも存在しない。比較することで、単語に意味を持たせている。
 比較対照することが良い悪いのではなく、比較対照しているという事実を教えられていないことに実体のない価値観が生まれる理由がある。

脳の認識  美しい、醜い、可愛い、汚い、などの表現は、好き―嫌いに基づく人の持つ認識による感情表現で、それは対象そのものにあるのではない。それは人間の脳にあり、脳があると思い込ませている。その思い込みは、価値観のことで、幼少の頃より作られている。


                 サイトの目的
理由   1+1=2 の意味について、 こんな簡単なことがわかっていない、と自分の認識に気付いた時、自分がわかっているという認識すべてが、わかっていないのにそう思い込んでいるだけなのではないか、という疑問がわいた。40年以上も前のことである。 それがこのサイトの原点に思える。
 当たり前に受け入れられている言葉に問題があることに気付き、それを明らかにし、修正する必要について考えるようになった。小さなことから始まったように思えるが、人類全体の歩みに関する修正が必要と考えるようになった。

マイケル アレフ 2022年11月





追記 2023年
信じるとは、可能性を否定することばである。
何の可能性を否定するのか?
信じる内容に間違いがある可能性を否定することである。
言い換えるなら、信じるとは絶対正しいという意味である。


絶対の意味
人間が絶対に間違いがない、と言ってもそれは、人間が作った人間の世界での考えであり、人間の世界に限定された枠の中でしか言えないことである。
全宇宙の中では無いに等しい地球上の人間の考えである。
それを宇宙全体に適応するには時期尚早である。

人間は宇宙全体での絶対の意味を理解していないし、理解できない。
人間の世界で絶対だ、間違いないと思っているだけである。

人間は人間のことばで作られた考えを全てだと思い込んでいて、
宇宙にその考えを持ち出そうとしている。
人間の考えが人間の間でしか通用しないことに気付いていない。


無限の意味
宇宙は無限の広がりを持っているように見える。
しかし、限界が無い、無限に続くという意味を理解することは、人間には困難である。
宇宙に限界が無いのかどうか確かめようがない。現在それを確かめる手段はない。
無限なのかどうかは人間にはわからない。

無限という考えは人間には理解できないため、
わからないから無限ということばで表現しているように思える。


永遠の意味
永遠の意味は、初めは不定の時、定めのない時間の意味で使われたのかもしれない。
それがずっと続くにかわり、永遠になったのではないか?

宇宙があるではないか? 宇宙は永遠に続いているではないか? 
続いているかどうかは確認できない。確認する方法は未だない。
それは人間の限界を超える表現であるり、答はわからない。

永遠という表現は人間の世界では通用しても、わからないという意味に思える。

数学では永遠に続く数字でも、自然数や有理数と無理数などでは濃さが違うと40年前に学んだ。ヘブライ語のアルファベットの最初の文字アレフを使って無限の濃さを扱っていた。その後どういう進展があるかは学習していない。