Simple Truths will correct the human beliefs
by Michael Aleph
 
    「豚に真珠」の問題点

マタイ7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

聖なるものとは何か。真珠が例として取り上げられている。当時は高価な物の代表であったのだろう。しかし、真珠は神聖なものか。物の価値は人によっても、状況によっても、生きている時代によっても変わる。元々神聖なものなどない。神聖と信じるからそう思えるだけである。

そう信じる背景には伝統、文化、慣習なども考えられるが、思い込みによりそう信じるから神聖にもなるのである。

イエスは自分の教えが神聖なものであり、それを理解しない人間に伝えても、彼らはそれを足で踏みつけ、向きなおってかみついてくると表現した。
犬や豚は神聖なものに対して反対し、過激な行動にさえ出る場合があるという警告である。

犬と豚の反応は日本の猫に小判とは大きく違う。
犬と豚は聖なるものに反対し、怒りを表し、攻撃してくると表現されている。
猫は小判の価値がわからないので関心を示さない。貴重なものを価値のわからに人々に与えでも何の役にも立たない。猫に小判を与えることは無意味であると。

確かにイエスの言葉を受け入れない人々、反対する人々はいた。足で踏みつけ、向きなおってかみついてくる人々であった。しかし、そうした人々を犬や豚のような存在として表現することは、「人を裁いてはいけない。敵を愛しなさい」という自らの教えに反することになるのではないか。

この世に初めから神聖なものなどない。神聖と信じるからそう思えるだけである。
イエスの言葉を神聖と信じるから、敵が作られた。犬や豚と表現されたイエスのことばに反対する人々が敵になった。本来敵などいないのに、イエスのことばを信じることが、犬や豚などの信じない人々を敵とみなす理由にしてきた。

「敵を愛しなさい」と言う前に、「敵を作ってはならない」である。

時代の変化は、昔からの認識に変化を求めている。
この世に神聖なものなど初めからないからである。