Simple Truths will correct the human beliefs
by Michael Aleph
  人を裁くな

マタイ715  人をさばくな自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれる・・・兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか・・・ どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

翻訳によっては、梁(柱上に渡される横木の総称)を丸太、垂木としているものもある。目にあるちりとは、眼に入ったごみのような小さなものという意味だろう。

今日でも「自分の欠点を棚に上げて、他人の欠点を大きく悪く言う」傾向は一般に広く見られる。避けるべきことであるが、2000年前からあまり変わっていないようだ。 

このたとえはわかりやすいが、体の一部の目を使っているため、内容的に無理な表現になっていて、現実にはあり得ない。 

目に梁、丸太、垂木が入るだろうか。入っている状態を想像することができるか。現実にはできない。想像するとマンガになってしまう。道理に合わない。

イエスが言いたいことは、「自分の欠点は丸太のようにでかいのに、見えていない。自分の欠点は棚上げにしながら、他人の欠点はずっと小さいのに、見えるから文句を言い批判する。まず自分の欠点を改善しなさい。そうすれば人の欠点も改善する方法がわかるでしょう。」になるだろうか。 

実際に小さなごみが自分の目に入ればどうなるか、経験したことがあるならわかるだろう。痛くて、不快で、正常心を保てない。すぐに自分で何とか取り除くか、他人に見てもらうか、医者に行く。他人の目にゴミが入れば、自分と同じように痛くて、その人はすぐに助けを求める。

自分の目に大きなごみが入れば、痛いどころか目が腫れて見えなくなる。ここではゴミではなく丸太である。生きてはいられないだろう。

つまり初めから、他人の目には小さなごみで、自分の目には丸太があるという状況は現実にはあり得ない。欠点(罪)を表現するとしても目を使ったとしても不適切に思える。

これは人の欠点についてわかりやすく伝えようとしていることはわかるが、例えであれば何をいってもよいのではない。

次に、ここに人を裁いてはいけない理由が書かれている。自分が裁かれないためでとある。 しかし、人を裁いてはいけないのは、自分が人に裁かれないためではない。付け加えると、神に裁かれないためでもない。

人を裁いてはいけないのは、裁くこと自体に間違いがあるからである。
裁くこと(人をこうだと決めつけること)の問題点は主に二つある。

1. 人間は間違いのない完全な判断をすることができない。
他人のことを100%知ることはできないからでもある。自分のことさえ十分にわかっている人はいない。
(詳しくは「自分とは何か」を参照)

2. 人は変わり続ける存在である。人は反省し、改善し、進歩する。
人は同じ状態にいることはない。もちろんさらに悪くなる場合も考えられる。

人は他人のことを十分知っている人はいない。十分知っていると言っても、決して十分なほどという意味ではなく、ほんの少し知っているという意味である。人は変わり続ける存在であると理解すべきである。人は変わらない存在と決めつけること自体が間違いである。人の可能性を否定することは裁くことにつながる。それ故、裁いてはいけないのである。

人は法律やルール違反に対して、決められたルールに従い、責任を取らなければならない。人は自分の犯した違反に対して、ルールに従って、責任を取ることになる。法が裁く。法によって、ルールによって裁かれるのである。


英文 Website Simple Truths by Michael Aleph