マタイ6:22、23 体の灯火は眼です。・・・眼が邪(よこしま)であれば体全体も暗いでしょう。
この言葉を聞くと今でもなるほどと思う人がいるのは、その人の認識が当時の人とそう変わらないからであると思われる。
イエスは目の働きが脳の持つ認識するための入力器官の一つであることを知らなかった。脳の存在もその働きも知らなかったと思われる。
今でも目が見て認識していると思っている人もいるかもしれない。しかし、目は考えることはできない。目が認識することはできない。
目から入った情報は脳に伝えられ、脳が認識しているのである。
目はカメラのレンズの働きに似ているが、網膜に映った映像は電気信号となり脳に伝えられる。脳には五感から入力された膨大な情報が格納されている。目から入った情報は脳に蓄積されている情報と比較され、何を見ているのかを脳が判断している。
カメラのレンズに相当する目が邪悪であることはありえない。視力の弱い人、老眼の人、色盲の人などがいる。弱視の人や目が全く見えない人もいる。
目が邪悪であると表現することは目の不自由な人に対する思いやりと認識に欠けていることになる。
目が体の灯火と思われたのは、こうした知識がなかったからである。
今は、目は五感による脳への入力器官の一つであり、目が邪悪であることは考えられない。
視覚を通して入力される情報が脳に影響を与え、人を利己的にし、不当な利益をむさぼったり、婦女暴行などの犯罪に発展する可能性は大きい。イエスが言いたかったことは視力により入力される情報は人に大きな影響を与えることがあり、体全体にさえ影響することがあるということだろう。
今風に言えば、「脳と感情に影響を与える目からの情報に注意を払いなさい。心を守りなさい」になるのだろうか。
英文 Website Simple Truths by Michael Aleph
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