Simple Truths will correct the human beliefs
by Michael Aleph


マタイによる福音書 5:45‐48 完全でありなさい

マタイによる福音書 5:45‐48:邪悪な者の上にも、善良な人の上にも自分の太陽を昇らせ、義人の上にも不義の者の上にも雨を降らせる。あなた方も天の父のように完全でなければなりません。

「邪悪な者の上にも、善良な人の上にも自分の太陽を昇らせ、義人の上にも不義の者の上にも雨を降らせる。」その通りであるように思える。多くの人はイエスの教えが正しいと思ったことであろう。しかし、この内容は太陽、雨の働きの一面だけしか取り上げていない。

太陽による日照り、雨が降らないなどの理由により土壌が乾ききってしまい、農作物が育たず、枯れてしまい、飢饉が起き、多くの人が死んだことは世界中で何度となくあった。今でも起きる。日本では神に雨ごいをすることもあった。それでも神は答えず、雨は降らず、多くの人が死んでいった。
(ウィキペディアによると江戸時代に起きた長期にわたる異常気象や害虫の異常発生、病害、火山噴火などでの凶作の連続による飢饉だけでも数百万人が死んでいる。)

イエスは自然災害については触れていない。台風、地震、津波で多くの人が死んでいることを取り上げてない。イエスの理解では、災害は神の責任ではないことになるのだろうか。イエスは自然の一面だけを取り上げ「天の父のように完全になりなさい」と語った。

これは片手落ちではないか。良いと思える面だけを取り上げて、神は善であるなどと言うのは間違いでないのか。重要なことを隠していることは、人々をだましていることと同じではないか。又はイエスの認識不足によるのか。

現代の理解では、太陽による恵みも災害も自然現象として捉えている。神の介入は考えられない。現代のあるべき認識は、「災害が起きるのは神の意思とは関係ない。」人間は自然界におけるこの現実を直視すべきである。 

明らかにイエスの神は人間にとって完全さを示す手本ではない。


完全とは間違いがなく、反省する必要はなく、進歩することがない状態のことである。人間の定義は今も確立されていない。人間が何かがわからない。

人間は間違える存在である故、完全ではなく、絶対もない。
しかし、人間には完全ではないからこそ、そこに進歩できる理由がある。
「間違い」を反省し、改善し、進歩することができる。
100%間違いないことは、進歩を否定することと同じなのだ。
完全とは人間の進歩することを否定することであり、人間の持つ自由を否定することでもある。

人間が不完全であることの意義は、間違いをしても、反省し、改善し、進歩することができることにある。それ故、人間に完全な定義はあってはならない。自由を失うことになる。

「完全になりなさい」という言葉に従うなら、人間は自由を失うことになる。



質問: 完璧な世界とそうでない世界の違いはどこにありますか。

Simple Truths by Michael Aleph