Simple Truths will correct the human beliefs
by Michael Aleph
 
 ヨブ記から考える 「神とサタン」 

サタンの存在についてはイエス自身も40日間断食した後に、サタンの誘惑を受けたと語っている。記録を書いたマタイはこの事実を目撃したわけではないので、後にイエスから聞いたと考えられる。ヨブの話も当然聞いていたと思われる。

サタンについてはヨブ記、他にも出てくる。その中でヨブ記には天の様子がわかりやすく書かれている。その内容はヨブという人についてのサタンの神への挑戦である。作者は絶対者なる神への理解、人間の置かれている立場、神を理解できないことへの苦悩を示していて、大変興味深いものに思える。

ヨブ記1章6−12節
6 ある日、神の子たちが来て、神(主)の前に立った。サタンも来てその中にいた。7 神は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。8 神はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
9 サタンは神に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
12 神はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは神の前から出て行った。

この中で、神の質問 「どこから来たのか」に対し、サタンは「地を行き巡り、あちらこちら歩いてきました」と答えた。この時点で作者は地に限定した世界観しか持っていなかったことがわかる。

神がヨブを誉めることにより、サタンに挑戦する機会を与えることになるが、こうした人間のようなやり取りは、ヨブ記の中に全能者ということばが何度となく使われていても、ここで表現されている神が全能とは全く違う存在であることを示していることになる。

作者は神とサタンそのものを表現した。しかし、ヨブの記録は天における出来事として書かれているのに、ここに表されている全能者の神は地上で独裁的権力を持つ王様や独裁者と同じであり、サタンは王様の配下にいる従者と同じである。天における関係が人間の世界と同じように表現されている。 

サタンは神に対しこう主張した。

「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたはヨブとその家族、持ち物などすべてに垣根を設け保護し、祝福し、繁栄させているではありませんか。もしそれらを除けば、ヨブはきっとあなたを呪うでしょう。」

神はヨブ自身に手を出さないことを条件に、サタンの挑戦を受けた。

サタンはヨブの妻を除きその家族である7人の息子と3人の娘すべてを殺し、莫大な資産すべてを奪い去った。しかし、こうした災難に遭ってもヨブは神を呪うことをしなかった。 

神とサタンの第一回戦では神が勝利したことになった。

天での話であっても、人間がこれを興味深い話と理解できるのは、実際は天での話ではなく人間の世界の表現であるからである。神とサタンの持っている権力、立場は大きく違っても、同じ生命体であることを示している。人間の世界から抜け出していない。つまり人間の世界と同じである。 

天国の様子など、人間が見たことのないものであれば、その世界を表現することはできるだろうか。見ても、それが何かがわからないのであれば、それをことばで表現することはできるだろうか。目の見えない人が初めて物を見る時と同じように思える。

シリーズ6 「美しさについての考察」の3.眼の見えなかった人が、見えるようになる時 について説明を書いた。つまり初めて見えるようになったとしても、見ているものが何だかわからない。知識、経験などの蓄積がなければ、五感で物などを識別することはできないからである。

人が空を飛ぶことは未だあり得ない時代である西暦1世紀のイエスの時代に、仮に現代のF-35戦闘機が音速を超えて人々の前を通り過ぎたら、人々はどう反応するだろうか。

はて?その時、人々は何を見たのか? 

当時でも目はあるので見ることは可能だ。しかし、見たことのないものである。一瞬しか見えなかった。今までに聞いたことのない爆音がした時には恐ろしさのあまり腰がぬけそうだった。呆気に取られて、しばらくは、何が起きたのかよくわからなく呆然とした。

見たことの無いものを見た時、実際見えたとしても、事実がわからず、確信が持てず、夢だったのだろうか、錯覚かと思い、見たかどうかさえもわからなくなってしまう。何を見たのかがよくわからず、何かと表現することさえ困難である。多くの人が見たので、「あれは神様だった。」と言うかもしれない。何となく黒っぽい色だったことと爆音から「あれは悪魔だった。」と言うかもしれない。わからないものに対して、人間はそう反応してきた。

人が天国に行けたとして、人は何によって認識するのだろうか。人間は五感によって認識している。天国では人間の五感があるのだろうか。五感だけでは意味がないので頭脳もあることになるのだろうか。すると人間の体も必要なことになる。

こう考えてみると、天国は地上と同じ物が必要になる。天国に行けたとしても、結果は地上と同じではないか。何が、どこが違うのだろうか。何かおかしいと思えるのは、天国そのものが本当にあるのではなく、想像によるからではないか。

「天国が何かわからない」から、想像して考える。すると人間の世界のような描写になってしまう。人間は人間の世界、人間の限界を超えて考えることはできないからだ。

サタンの主張は正しいか。

サタンは「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたはヨブとその家族、持ち物などすべてに垣根を設け保護し、祝福し、繁栄させているではありませんか。もしそれらを除けば、ヨブはきっとあなたを呪うでしょう。」と主張した。

「繁栄は神により保護され、祝福されているから」という主張は正しいか。
現在でも多くの人は未来はわからないから恵みに対しては神に感謝し、災害や不幸に対しては「神も仏もない」という。そうした考えに首尾一貫性はなく、状況によって変わる。神による繁栄という考えは正にサタンの主張と同じである。人間の勝手な思い込みに過ぎないように思える。
時に運がよいと思えることもあるが、繁栄は基本的に絶え間ない人間のひたむきな働きの結果であるように思える。


真実の神への理解と認識」の中に全知、全能の意味について説明を試みたが、そこからわかることは全知、全能の神は、人間の世界に介入することは有り得ないことである。

この作者にとって、また現代の誰にとっても、絶対者なる神は全く理解できない存在である。ヨブ記の作者はそのわからない存在に対して、質問を定義することにより、答えを求めていたのではないだろうか。




その2
神とサタンとの第二回戦。再びサタンは神に挑戦した。今度はヨブを重病にしたら、きっと神を呪うという主張である。神は命に触れないことを条件に、サタンの挑戦を受けた。
突然子供と財産すべてを失い、今度は重病(重い皮膚病)になったヨブであった。2:9 ヨブの妻は「忠誠をいつまで保っているのですか。神を呪って死になさい。」とさえ言ったが、それでもヨブは神を呪うことはなかった。

ヨブの不幸を聞いて三人の友がやって来た。ヨブの病に驚き悲嘆にくれ、7日間何も話さずそばに座っていた。その後、ヨブとその3人とのやり取りが書かれている。

三人はヨブに生じた不幸の原因を神による裁きではないかと言った。家族に罪があったからではないか。ヨブ自身が何か悪いことをしたからではないかと。そう言われる中で、ヨブは自分の潔白を主張し、自分は正しい、間違いをしたことはないと言い、そしてついに神よりも自分の方が正しいと主張するようになった。

三人との論戦が終わった時、若いエリフが登場する。エリフは年が若いので三人とヨブとのやり取りを黙って聞いていた。しかし、四人がそれ以上言うことがなくなったのを見て、エリフは三人の誤りを指摘する。その後、神が直接ヨブに語りかけ、ヨブは反省する。
42:3、,6「わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。
・ ・ ・ わたしはみずからうらみ、ちり灰の中で悔います」と。

神は再びヨブを祝福した。
ヨブは再び男の子7人、女の子3人の子供に恵まれ、資産は以前持っていた2倍までも豊かになった。この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。

すべてがうまく収まったかに見える。終わりよければすべてよし。すべてが何もなかったかのようだ。

さて、この話の問題点であるが、ヨブの悲惨な出来事の原因は何であったか。
その発端は、天での集まりで、神がサタンの前で「ヨブという人間ほど純粋で、正義を愛し、神を恐れ、悪を退けている人はいない」と誉めたことから始まった。
人間の世界ならともかく、神は人を誉めるだろうか。それもサタンの前でわざわざ誉めるだろうか。

人間は誉められることが好きだ。優越感に浸れることをこよなく愛する。人間の傾向である。それ故、いつ、どこで、誰を、なぜ、どのように誉めるかによっては問題を引き起こす原因にもなる。すべての人が誉められたいと思っているからであり、ねたみや非難の対象になりやすい。

人々は神を賛美する。神を誉め讃えるよう教えられてきた。しかし、「全能の神、無限の神、絶対者には、ほめたたえられることなど全く無意味なことである。もしほめたたえられることを願う神であれば、それは明らかに人間並みの存在である。」

神が人間を誉めたことで、ヨブは子供達と財産すべてを失った。こんな理不尽なことが許されるだろうか。ヨブの不幸は神のせいではないか。神がサタンの挑戦を受け入れたからではないか。神は何をしても許されるのか。

ヨブは神について、「神は与え、神は奪う。神の御名はほめたたえられよ。」と語ったが、大自然は神ではない。神の意思を反映しているわけでもない。大自然による恵みも災害も神の意思とは関係なくもたらされている。

ヨブ記の内容は人間の視点で書かれており、神に対する理解に誤りがある。全能の神は人間の世界に関与することはない。人間は災害が起きると「神も仏もない」と神のせいにするが、それは人間の勝手な思い込みであり、根拠はない。

神はサタンの行動を読むことができないのか。予知して防ぐことこそ神の力ではないか。この神は神としての能力に欠けている。何と愚かな神であることか。人間をもてあそぶ醜態は許しがたい。神の正義はどこにあるのか。

サタンの挑戦を受ける神とはいったい何者か。全能の神であれば、そのような挑戦を受けることはない。全能者であれば挑戦される前から答えはわかっている。全能者に対してチャレンジできる者などいない。チャレンジする意味もない。この神は二度もサタンの挑戦を受けた。正に人並みである。神は第2回戦でも勝利したと言うことができるとしても、それは人間の視点でしかない。

ヨブ記の天での出来事が人間の世界と同じような内容になるのは、全能者の意味を知らないことによる。神はまるで権力を持つ王様のような振る舞いをする者として表現されている。愚かな人間の独裁者と同じだ。

これでは人間と同じ世界である。作品としては面白くても、全能の神の真実からは全く違う話であり、人に誤解を与えるものである。数千年にわたり、これが全能の神の姿だと思わせてきた。



その3
ヨブ記からわかることは、神とサタンは立場や権力は違っていても、人間同士が敵として戦うのと同じように、同じ生命体と考えられることである。なぜなら、全能の神の前に敵は存在できないからである。

「敵であるためには、対等に近い関係が必要である。人間であれば、敵、味方に分かれて戦うことがある。戦うことが可能なのは、人間の場合、対等な存在であるからである。一方が限りなく強いと、対等にならず、敵にはならない。」 

数千年にわたり、多くの人は「全能の神は愛であり、常に正しく、悪いことをすることがない」という信仰を持ってきた。しかし、それでは災害が起き、たくさんの人が死んでいる理由を説明できない。人が不幸になる理由を説明できない。全能の神は人間の社会に介入にしてはいない。人間がそう思いたいだけである。

作者は「全能者の前には人間は何もわかっていないに等しい」ことを書いている。それは真実である。しかし、ここに出てくるヨブの神は全能者ではない。

注意が必要である。人類の歴史に全能の神の介入はない。しかし、創世記の天地の創造者の神に代表される存在は人類の社会に介入してきたと考えられるからである。

ミケランジェロは「アダムの創造」と呼ばれるフレスコ画に、神を人間として表現した。創世記の天地の創造者なる神を表現したものだが、それは人間の形として表現されている。描かれている神は全能の神ではない。彼は正しく描写したと言える。なぜなら、アダムの創造者は人間と同じ形をした知的生命体であるからである。(詳しくは Part 1へ)

全能の神、無限の神、永遠の神、絶対者を形やイメージで表すことは不可能に思える。しかし、不思議なことに、ことばではそう表現している。ことばの持つ力は無限に近いものなのだろうか。部分的ではあれ、人間のことばによる思考は、無限を考えることができることを意味しているように思える。

聖書の中でサタンはアダムの創造に関連して出てくる神に敵対する勢力の存在と考えられてきた。しかし、事実はアダムの創造の前から、知的生命体の間で敵対する関係がすでにあったことを示している。悪魔も悪霊も同様に神に敵対する存在である。ここでは別の存在のように書かれてはいるが、元々は同じ知的生命体の間で争いがあったのではないか。つまり人間の世界で人間が敵と味方に分かれて戦うように、神もサタンも、同じ生命体である可能性は高い。

ルカによる福音書の10章17,18に、イエスにより派遣された70人の弟子が喜んで帰ってきたことが書かれている。喜びの理由を「悪霊たちが弟子たちの言うことに服した」からと答えた。するとイエスは「サタンはすでに稲妻のように天から落ちたのが見えるようになった」と語った。

これを真実と受け止めるなら、天地の創造者とその敵対者の間での論争が決着したことを言おうとしていたのではないか。悪魔も悪霊も同様であると思われる。

全能の神として信じられてきたイスラエルの神は全能、永遠、絶対者の意味とはまるで違う。当時の世界に対する認識は現代のものと比べれば比較にならないほど小さかった。その小さな世界から見ると、地とそれを取り巻く小さな宇宙がすべてであった。当時の神も地球という枠から出ない小さな存在だったのである。

「全能の神の前に敵対するサタンのような勢力はあり得ない。全能の神に敵はいない。敵は存在し得ない。敵が出てくるのは人間という枠で、小さな世界で考えるからである。人間の想像により敵が作られるからである。

創世記、ヨブ記、キリストの使徒による記述などの中に神の敵、サタン、悪魔が出てくるが、こうした考えは無限に広がる宇宙の存在も、目に見えない素粒子の世界の存在も知らない時代の人びとの考えである。

全知全能の神、無限の神、絶対者の前に敵は全く存在し得ない。敵という考えは人間の考えである。元々は天地の創造者(知的生命体)の考えであったかもしれない。無限、永遠、絶対という考えを前提にするなら、そこに人間並みの考えが入り込む余地はない。絶対者の前に敵もサタンも悪霊も絶対者と対等な関係で存在することはあり得ないからである。」



補足:
多少でも対等な関係を考える助けになればと思い、あえて例えを考えてみた。

全能の神を人間、敵であるサタンを小さな蟻として考えてみる。
すると大きな違いを感じる。人間と蟻、差が大きいと敵になるかどうかがわかる。人間は基本的に蟻を敵とは思わない。なぜか。小さい存在に対しては、自分達に害を及ばすことがない限り対等な関係とは思わないからだ。

全能の神は無限の神でもあるから、人間を無限大に大きくして比べてみる必要がある。すると蟻はさらに小さな存在となり、見えなくなり、比較対象にならなくなる。

実際に有限の存在を無限と比較すれば、限りなくゼロ、無いに等しい存在になる。

敵であるためには、対等に近い関係が必要である。人間であれば、敵、味方に分かれて戦うことがある。戦うことが可能なのは、人間の場合、対等な存在であるからである。一方が限りなく強いと、対等にならず、敵にはならない。

聖書に書かれている天地の創造者なる神には敵がいた。サタン、悪魔、悪霊である。
敵であるため、争い合うためには、対等に近い関係でなければならない。
天地の創造者なる神、天使、サタン、悪魔、悪霊はすべて対等な関係であると考えられる。なぜなら、互いに敵として表現されているからで、これらすべての存在は立場が違っても、上下関係があっても、同等の生命体と考えられる。

人間アダムが造られる前から、争い合う関係が存在したと考えられる。それは人間が敵、味方に分かれて争うのと同じように、神、天使、サタン、悪魔、悪霊は敵、味方に分かれて争っていた。そのことが意味するのは、これらすべては同じ生命体であると考えられることである。

人類は数千年という長い期間にわたり、天地の創造者なる神に対して、自らが間違った理解とイメージを作りあげ、大切に持ち続けてきた。神は全能と考えるようになった。しかし、上記のことからわかるように、天地の創造者は全能の神などではない。他の天使やサタン、悪魔と同じように、存在としては同じ知的生命体であると考えられる。

全能、無限、永遠、絶対者としての存在は、すべての知的生命体を超越した、全く別の存在として認識する必要がある。

戦うという表現は単に対等な関係に限られるわけではない。
今でも人間は病気、病気の原因のウィルスと戦う。平和のために、貧困の撲滅のために戦う。人間の権利のために、正義のために戦う。利己主義と戦う。自由のために戦うなどのように、人間にとって脅威となるものに対しては戦い続けると表現する。
戦うのは対等であるからだけではなく、人間の弱さ故に、人間を守るため、人類の存続のために戦うこともある。

対等な関係で敵、味方に分かれて戦争することは、人間としては間違いであり、すでに時代遅れである。人類は新たな考えと生き方を必要としている。

人類はいつまで間違いをそのままにしておくのだろうか。それでかまわないのだろうか。
人類が滅亡の危機に直面するまで気付かずにいるのだろうか。

ここに書いたことは、微力ではあっても、人類の間違いに対する修正への試みであり、抵抗でもある。



マイケル アレフ 2019年9月